私は、「自分で仕事をする」とスタートしてから11年近くかけて積み上げたものを、一度全部手放したことがあります。
外側から見たら、私が捨てたものは「キャリア・収入源・人間関係・評価・結果」などだったと思います。
だから、
「もったいない」「どうしてそんなことしたの?」
そういった言葉を、何度か受け取ってきました。
でも、あの時の私は、「続けること」のほうが苦痛でした。
あの時の私は、「捨てたい」という思いすら越えていました。
何がイヤだとか、どうしたいとか、そういう思考すら入る余地がなかった。
だから、おそらく「本能的な感覚」だったと思います。
答えの出ない問いを持ち続ける苦痛
私自身、自分がなぜ「やめる」「捨てる」という選択をしたのか、言葉にすることができませんでした。
人に「なぜ?」「どうして?」と聞かれた時は、
「もうやる理由がなくなったから」「人間関係に疲れたから」「ちょうどいいタイミングだと思ったから」
などと、それとなく当たり障りのない答えを言っていました。
でも、その言葉は本心ではないから、空虚なもので、私の心はずっと宙に浮いていました。
私はずっと自分に「私は何をしたんだろう」「なんでこんな道を歩んでいるんだろう」と、問いかけ続けていました。
傍からみたら何もしていなくても、私の内側はずっと疲弊していた
答えのない問いを抱き続けることは、答えを求めて動き続けるエネルギーを抱えて生き続けること。
それは、エネルギーがいる生き方です。
現実の私は、一人暮らしを選択し、人と接することをやめた生活になっていました。
余計な人間関係もなくなったし、仕事に追われることもなくなった。
好きな時に起き、好きな時に食べ、好きな時に寝る。
確かにこの生活は、自由で、贅沢な面があります。
ストレスはなかったと思います。
でも、私は、「掴めないままの問い」をずっと抱いて過ごしていたので、それまでの人生で味わったことのない、言いようのない「疲れ」を感じていました。
その疲れは、「これまで走り続けた蓄積」と思っていました。
でも、今は分かります。
「答えを求めて心がさ迷っていた疲れだったんだ」と。
答えが出るまで私を支えていたもの
私は、それまでの人生で、「自分は自分の人生を意識的に選んでいる」という”自負”がありました。
だから、疲れを感じている日々の中でも、「きっとこれにも意味があるはず」と自分を信じているところがあったのだと思います。
「自信」なんていう、明確な強さではなく、ただ漠然と、「きっと意味があるはず」と思っていたし、そう思いたかった。
きっと意味があるはずだ、という希望がなければ、「まだ出口が見えない問い」を持ち続けることはできなかったのだと思います。
私が捨てたものは「もういらない私」
さて、過去を振り返ってあの時の私は何を捨てたのか?
それは、「キャリア」じゃなくて「もういらない自分」。
・エネルギッシュでパワフルな自分
・人から賞賛される自分
・結果を出せる自分
・数値を追いかける自分
これらはどれも確かに「あの時の私」です。
いつだって、私は私でした。
でも、「あの時の私」は、これからの私ではない。
だから、捨てた。
時間は未来から流れてくる?
「未来から流れてくる」という考え方は、哲学やいくつかの分野の解釈で出てきます。
・未来の「目的」や「ゴール」に引っ張られて今が決まる
・私たちは「これから起こること」に向かって生きている
という見方をすると、未来が現在を形づくっているといえる。
だから、時間は未来から流れてくると。
私のとった行動はまさに、これだったのだと思います。
意識にも上らないほど、本能的にあった「これからはこう生きていきたい」という未来の私が、あの時の私を動かした。
今の私が過去の選択を肯定できる理由
なぜ、今の私が「未来の私が、あの時の私を動かした」と言えるのか。
それはシンプルです。
今の自分に満足しているからです。
ここには、重要な問答があると思います。
・過去を肯定したくて「今が満足」に着地したのか
・今が満足だから、過去が肯定できるのか
でも、私はこの問答のどちらが正解なのかを突き止める気持ちは湧きません。
なぜなら、「今に満足している」、それ以上に納得できるものがないからです。
私は「言語化」を大切にしますが、それと同じぐらい大切にしているのは、「感覚」です。
今、幸せや満たされている感覚があるのなら、それを言語で説明する必要はないときがあります。
モヤモヤしたり、蓋をしてしまったものがあって、それが「気持ち悪い」「解決したい」と思うのなら、その時は「言語化」が役に立つことがある。
だけど、感覚を感覚のままにおくことは、それと同じぐらい、またはそれ以上に大切なときがあると、今ならはっきりと分かります。
